被災地へ行ってきました
東北地方のガソリン供給が少し落ち着いてきたということで、母の実家がある宮城県の三陸町に父方の叔父叔母と一緒に3人で必要物資満載して行ってきました。登米市の田園地帯はあの震災がまるでウソだったかのようにのどかな風景が広がっておりました。ただ、行き交う車は被災地に近づくにつれ自衛隊の災害派遣の車が目立ってきます。
そして、コンビニなどがどこにも無いので偶然みつけた道の駅で今夜の夕飯にするおにぎりとおこわを調達。そして、登米市から南三陸町に下って行くと沢筋に追い上げられた車の残骸が目に入ってきました。
更に進み海が見えると同時に褐色に染まった瓦礫に埋め尽くされた広大な南三陸町が突如として目に飛び込んで来ました。テレビで見た光景よりも実際に目の前に広がっているこの異常な世界は壮絶そのもの。見渡す限り街全体が破壊されていました。3、4階の鉄骨には何処もかしこも本来は海にあるべきブイなどが纏わり付いているではありませんか。
そして、母の実家に到着。グーグルアースや震災の空撮写真を確認すると母の実家は残っているように見えたのですが、それは物置小屋として使っていた隣家の屋根でした。
ここに写っている土台が母の実家です。母方の叔父や叔母は津波に流されながらも命からがら助かりました。ですが、祖母は残念ながら流されて津波の犠牲になりました。他、3人も未だ行方不明のままです。
写真の後ろの方に写っている線路は気仙沼線です。近くには無人駅の清水浜駅があるのですが、駅舎の屋根まで破壊されていました。上まで十数メートルあります。自衛隊の方の話ではこの辺りは20数メートルの津波が来たとのことでした。
防波堤はズタズタに破壊され、この辺りの家は高台の1、2軒だけを残し、すべて津波に流されました。子供の頃、海水浴したり、浜辺でキャンプしたり、裏の水田でホタルを見たり、庭先で天体観測したりと自分にとっても思い出の場所。すべて無くなってしまいました。
現在、母方の叔父叔母たちは避難所で生活しています。僕らは避難所から近い母方の親戚のみんなが一時的に間借りしている一軒屋に向かいました。ここには四家族が避難生活していました。電気、ガス、水道、すべて無し。水は車で近くの山まで行って沢から汲んでくるとのこと。本当に本当に不便な生活を強いられておりました。でも、みんなクヨクヨなんかしてません!前向きです。
夜は寒くて暗いので8時過ぎには寝ました。みんなで雑魚寝です。7時間の運転疲れからか、夜中の余震にも気が付かずに熟睡しました。
下の写真は南三陸町。見渡す限りこのように壊滅状態です。
自衛隊や海外からの災害派遣の皆様、本当にご苦労様です。何処から手を付けていいのかわからないくらいの被害なのに、本当に大変な任務だと見ていて感じました。本当に感謝させられます。
そして、被災者の皆様、かなりの忍耐を強いられておりますが、東北魂で頑張って下さい!
そして、全国の皆様、寄付金・義援金をどうかお願い致します!
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